江戸時代
江戸時代
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皇居(旧・江戸城)富士見櫓、1659年(万治2年)築造。江戸時代(えどじだい、1603年-1867年)は、江戸幕府によって日本が統治されていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。江戸に幕府が置かれていたことから江戸時代という。
慶長8年(西暦1603年)2月12日に徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ江戸(現在の東京)に幕府が開かれた時を始まりとし、慶応3年10月14日(1867年11月15日)に大政奉還するまでの264年間を指す。
年表
関ヶ原の戦い、大坂の役、元和偃武、武断政治、二元政治、天草の乱、鎖国、元禄時代
文治政治、幕政改革、側用人政治、正徳の治、享保の改革、田沼時代、寛政の改革、大御所時代、天保の改革
幕末
政治・社会
中央政治
江戸時代は将軍徳川氏を中心として、武士階級が支配していた封建社会であった。一般市民の身分制度は士農工商と呼ばれる階級制であり、武士が民衆を支配していた。それまで武士と農民は分離していなかったが、豊臣秀吉の刀狩りと武士は城下・町人は町屋・農民は村落と住居が固定されるなどにより武士階級と農民が明確に分離された。しかし江戸時代の各階層にある程度の流動性も見られる。特に江戸には飢饉などにより地方から流入してきた農民も多く、幕府はしばしば帰農令を出している。また、全国の諸藩には、郷士と呼ばれる自活する武士も存在した。かれらは城下に住み藩主から俸禄を貰っていた武士である藩士とは明確に区別され、また一段下の身分として差別されることもあった。幕末に活躍した人びとには、勤皇方、幕府方を問わず、下級藩士・郷士・町人など軽輩階層出身者であった者が多い。
幕府は江戸、大阪、京都に町奉行・所司代を置き重要視したが、その他伊豆・日田・長崎・新潟・飛騨や重要鉱山に代官を配置し支配した。これらの支配力は単に一都市に限らず、京都所司代は山城・丹波・近江など、大阪町奉行は西日本諸国の天領の采配がそれぞれ許されるなど、管轄地の諸大名を監察する役目もあった(京都所司代は朝廷も監視していた)。
地方政治
江戸幕府より統治の許可を得た諸大名が原則的には一代に限り土地統治を認められた封建体制である。領土の支配体制は各大名によって異なるが、ほぼ幕府の支配機構体制に準ずる形をとった(例外は島津藩)。身分制についても同じである。ただ、大名には幕府により参勤交代と御手伝いの義務が課せられ、大名貧困化の大きな原因となった。これを打開するために藩政改革が18〜19世紀にかけて各藩で実施される(早いところでは土佐藩が17世紀中葉に行った)。初期は倹約と藩札発布が主であったが、18世紀中盤になると塩・陶器などの土地産物の専売制がかなりの藩で実施される。変わったところでは紀州藩の「熊野三山寄付貸付」があり、大名みずからが金融業者になり利子を取るということまでしている。
一部の国持ち大名の藩を除いて、藩の領地は中心城と城下町周辺と、その他は少し離れた飛び地を持っていた。この傾向は特に10万石前後の譜代大名に多く見られる。京都付近の淀藩は山城など近畿のほか遠く上総まで所領を持っていたが、これは稲葉家が上総から淀に移封する際に付いてきた物と考えられる。こういう例は意外と多い。
幕府の各大名の支配方法として、参勤交代と御手伝いの義務のほか、将軍の娘をもらったり息子を養嗣子としたり、お金を貸し与えたりした。また、大名と大名の間を婚姻関係で結んだりしている。
なお、一部の特例を除いて知行体制を18世紀初旬までに地方知行制(現地領主制)から俸禄制(サラリー制)と変遷している。
地方
この時代は農本主義のため、幕府・大名の拠点のある城を中心とした町(城下町)の他は基本的に農村と考えられていた。このため港の利益や鉱山の鉱物なども米に換算していた。大名たちは上納金を貢いでくれる城下町が栄えることは、みずからの発展と同義と考え保護政策をおこなっている。
しかし、江戸時代中期に入り港町や宿場町などの発展、換金性の高い綿が栽培され始めるなど農村部に資本主義が流入され、また(これが最も大きいのだろうが)大名への献金が過重になり過ぎて商家の一部がつぶれるなど、城下町の衰退が目立つようになった。この農民の商売熱を冷まそうと幕府は田畑永代売買禁止令などを発布するも効果がなかった。
農村では庄屋が幕府・大名と農村の橋渡しとして存在し、原則的に武士は農村にいなかったとされる(地方知行制を温存した仙台藩など例外はある)。この庄屋は昔から土地を所有している有力農民や土着した武士の末裔などがなる場合が多く、苗字帯刀あるいは諸役御免の特権を持つ者や郷士に列せられるものも多かった。また大きな村では複数名の庄屋が寄合を開いて村を治めた。かれらは、年貢を滞りなく収めるようにするだけでなく、施政者の命令を下達する役目もあった。諸藩により違いはあるものの、百姓が困っている場合には彼らを代表して施政者に伝え、一揆の際には農村側に立って先導するような百姓側の代表としての意識の強いものと、支配機構の末端をになう下級官吏の面が強く一揆などの際に標的となる場合もあった。困窮した零細農民の土地を集積するなど地主的な側面の強くなる近世後期には後者の面を持つものが多くなった。
読み書きを中心とした寺子屋や郷校が城下町のみならず農村部にも建てられたため、日本人の識字率は高かった。また岡山藩の閑谷学校を嚆矢として、あちこちの藩が郷民でも入校できる学校を作った。
財政
徳川家康は武士の支配構造の基本として重農政策を選んだため、支配者階級である武士階級は、その収入を米に依存していた。そのため幕府の経済政策の主力は米相場を安定させる事が中心になった。しかしながら、収入を増やすために米の生産量を増やすと米価が下がると言う様になかなか思うようにはいかず、商人たちが経済の主導権を握るようになる。また、町人階級の経済的躍進は、武士階級を困窮させる事になり、幾度も倹約令が出される事になる。また18世紀に入ると日本は飢饉が頻発するようになり、天保の大飢饉になると藩によっては収穫ゼロ(津軽藩など)の所も出てくるようになる。これを見て田沼意次は、重商政策を取り入れようとしたが、反対勢力によって失敗に終わっている。幕府は18世紀以降、貨幣の中に含まれる金を減らし、貨幣の発行量を多くすることによって財政を持ち直そうとしたが失敗に終わる。
朝廷関係
禁中並公家諸法度、外戚関係、紫衣事件、尊号一件
社会
五人組、慶安のお触書、田畑永代売買禁止令、士農工商
元禄赤穂事件、百姓一揆、打ちこわし、大塩平八郎の乱、剣術道場
江戸時代には封建社会に縛られた民衆のはけ口として、遠方の寺社への巡礼、参拝がさかんになった。これは多分に娯楽的な意味を持ち、民衆が旅行するようになった起源とも言われる。中には旅行代理業者や案内業も現れ、寺社の側に歓楽街ができたところもある。また、現在の旅行ガイドブックのような案内書も刊行されている。この遠方への巡礼の背景には、五街道や宿場町の整備、治安の良化などのインフラが整ったことがある。これらの代表的なものには、信州の善光寺参りや伊勢神宮へのお陰参りがある。特にお陰参りは、江戸中期後期、60年周期に爆発的に大多数の参拝者が押し寄せる現象が起き、これは江戸末期のええじゃないかに繋がることとなる。また、江戸末期には、天理教や金光教などの神道系の新宗教が現れている。
士農工商の下には、古くからあった穢多、非人と呼ばれる被差別階級があり、かれらは人の嫌がる仕事(刑死執行人・掃除など)を与えられ、その上、幕藩体制維持のために諸大名より差別政策の犠牲者となった。明治維新によって死牛馬取得権などの特権を失った反面、差別は依然残り、部落解放運動につながった
経済・貿易・対外関係
江戸時代は、鎖国政策を布いていたが、経済的にはめまぐるしい発展を遂げ、その資本の蓄積は、明治維新以降の経済発展の原動力となる。 各地の諸大名は、江戸藩邸や参勤交代の費用を捻出するために自藩産出の米や魚農産物を大坂に売ったため、大坂は諸大名の蔵屋敷が置かれ全国の特産品が並び、盛況を活した。また、参勤交代やお手伝い普請で多くの諸大名が街道筋の宿屋・旅籠に泊まったため、経済の流通が活発化した。
農業・林業
農業技術:農業器具の進歩、千歯こき・備中鍬、金肥料、
農学:二宮尊徳
水産業
俵物
鉱業
佐渡金山
手工業
商品作物、マニュファクチュア
交通
陸上交通:五街道(東海道、中山道、日光街道、甲州街道、奥州街道)
水上交通:角倉了以、河村瑞賢、東廻り、西廻り、菱垣廻船、樽廻船、
通信:飛脚制度
都市
三都:江戸・大坂・京都、城下町、宿場町
商人
江戸商人、上方商人
貨幣
江戸幕府は、貨幣制度の改革をおこない、永楽銭などに代わり寛永通宝などの国内貨幣の鋳造をおこないこれを流通させた。しかしながら、高額貨幣は、東日本は金貨が、西日本は銀貨が流通の基本となっており、その相場も日々変動したため、両替商などの金融業を発達した、また大量の貨幣を運ぶのを避けるため、手形取引も発達した。また、1620年頃から世界に先駆けて大坂の堂島において先物取引がおこなわれていた。
経済が発展するとともに大量の物資輸送の必要が出てきたが、江戸幕府の国防政策により大きな船が作ることが出来なかったため、樽廻船による日本沿海を周回する物資流通が大きく発達した。
貿易は鎖国政策を布いていたために、主流は長崎の唐人屋敷における中国、出島におけるオランダとの交易であるが、対馬藩を仲介した李氏朝鮮との倭館での交易も幕府の公認を受けたものだった。抜け道もいくつか存在し、薩摩藩の支配下にあった琉球を通じた中国、東南アジアとの仲介貿易、松前藩を介したアイヌとの交易などがおこなわれていた。交易とは違うが、天候不順により海外へ難破した者も数名いた。例外もあるだろうが、かれらは一応に外国の手厚い保護を受け外国の知識を得て日本に帰国した。幕末に活躍する中浜万次郎(ジョン万次郎)もその一人である。
なお江戸幕府は唯一李氏朝鮮とは正式な国交をもっていた。
朝鮮通信使
日露関係史
日朝関係史
学問・思想
江戸時代には、戦乱が静まり社会が安定し平和になったことと経済活動が活発になったことにより人びとの言論活動も活発になり多様な学問が開花した。また経済の発展による庶民の台頭は、学問の担い手を生むこととなった。江戸時代の学問の特徴としては、研究者個人の直感的、連想的な思考を軸とする中世的な発想で研究を進めるのではなく、文献などに基づき実証的に研究するという態度が現れたことが挙げられる。また一部には身分制度を否定したりする思想が現れた。このように、中世を離れ近代に近い時期として、江戸時代は歴史の上で近世と定義されている。
江戸時代中期になると、藩政改革の一環としての藩校開学が各地で行われるようになる。基本的には藩士の子弟に朱子学や剣術を奨励・徹底するものだが、一部には医術や西洋技術を講義し、さらに庶民までも受講対象となるところもあった。 庶民レベルでは僧侶ら知識階級が庶民らの子どもを集めて基本的な読み書きを教えた。この寺子屋が増えていったことで日本の識字率が高まっていき、幕末から明治にかけての近代化を支える原動力となった。 また、京都や大坂などの大きな町では江戸時代初期から伊藤仁斎が古義堂を開くなど私塾を構えるところもあったが、江戸中期くらいから郷村で村塾といわれる私塾が出てきた。
儒教:朱子学、陽明学、古学、古義学、古文辞学
国学、尊王論、宝暦事件、明和事件
心学
水戸学
蘭学、寛政異学の禁、シーボルト事件、蛮社の獄
和算
宗教・思想
仏教
仏教に関しては、徳川幕府の宗教政策によって民衆支配の手段として使われたために(檀家制度)、黄檗宗が長崎華僑のために渡来したことを除いては仏教は不振となった。仏教内部も腐敗し、いわゆる「葬式仏教」が成立したのもこの時期で、形骸化した仏教は神道、儒教の両派から批判された。織田信長や徳川幕府より邪宗とされた日蓮宗不受布施派は徹底的弾圧された。
神道
神道では国学の隆盛に伴い、儒仏を廃した復古神道が唱えられ、一部では神仏分離が始まった。復古神道は儒教や仏教の教えを排除したが、一方では、神道と儒教が習合した神儒一致の垂加神道などの儒教神道が現れた。復古神道や垂加神道は幕末の尊王思想にも影響を与え、明治期の政策にも影響を与えた。明治維新で朝廷権力が復活したために、各地で勤皇の神社が建立され(湊川神社もこの頃)、天皇陵が各地で定められた。
キリスト教
豊臣秀吉による伴天連追放令の流れを受け、キリスト教は江戸時代のほとんどを通じて徹底した取締りを受けた。江戸時代初期は交易国であったイギリスやポルトガルなどからもキリスト教が伝えられたため、禁止令も徹底されなかった。しかし鎖国政策を進めるにつれてキリスト教の弾圧が激化、特に1622年9月10日に長崎西坂で多数のキリシタンが処刑された事件は「元和の大殉教」として知られる。さらに三代将軍徳川家光は、封建制度の確立、キリシタンの禁止、鎖国を三大政策として確立した。このためキリスト教徒は体制を脅かす存在として殉教か、棄教へ追い込まれた。1637年におきた島原の乱の終結後は全国においてキリシタン取締りが徹底され、寺請制度などキリスト教徒を摘発するシステムが確立された。わずかに残ったキリスト教徒は隠れキリシタンとして幕末まで信仰を存続した。江戸末期の1865年にはこの信徒たちがフランス人宣教師に信仰を告白して世界的ニュースとなったが、彼らはその後明治政府に弾圧された。(浦上四番崩れ)