明治時代日本史年表

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明治時代

明治時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

年表
1868年(明治元年)神仏分離令
1869年(明治2年)戊辰戦争の終了、版籍奉還
1871年(明治4年)廃藩置県
1872年(明治5年)太陽暦(グレゴリオ暦)の採用
1873年(明治6年)徴兵令、地租改正、明治六年政変(西郷隆盛・板垣退助が下野)
1874年(明治7年)民撰議員設立建白書、台湾出兵
1875年(明治8年)樺太・千島交換条約
1876年(明治9年)日朝修好条規(江華条約)
1877年(明治10年) 西南戦争
1878年(明治11年) 地方三新法
1879年(明治12年) 沖縄県を設置した。
1880年(明治13年) 国会期成同盟結成
1881年(明治14年) 明治14年の政変、国会開設の詔勅出される。
1882年(明治15年) 福島事件
1884年(明治17年) 秩父事件
1885年(明治18年) 内閣制度発足、天津条約
1889年(明治22年) 大日本帝国憲法発布
1890年(明治23年) 第1回衆議院総選挙、第1回帝国議会召集
1891年(明治24年) 大津事件
1894年(明治27年) 日清戦争 (- 1895年)、日英通商航海条約
1895年(明治28年) 下関条約
1901年(明治34年) 足尾銅山鉱毒事件
1904年(明治37年) 日露戦争 (- 1905年)
1905年(明治38年) ポーツマス条約
1910年(明治43年) 日韓併合、大逆事件


明治(めいじ)は、日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。1868年1月25日から1912年7月30日までの期間を指す。明治天皇在位期間とほぼ一致する(ただし、実際の改元の詔書が出されたのは1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)である)。


改元
慶応4年9月8日(グレゴリオ暦1868年10月23日) 明治天皇即位による代始改元。
ただし、改元の詔書には同年1月1日(グレゴリオ暦1868年1月25日)に遡って適用される旨が記載されているため、法的には1月1日より改元とされる。
明治45年7月30日(1912年(グレゴリオ暦と同一計算法の太陽暦導入のため日付は同一)) 大正に改元、同日は大正元年7月30日となった。


出典
『易経』の「聖人南面而聴天下、嚮明而治」より。

「聖人南面して天下を聴き、明に嚮いて治む」というこの言葉は、過去の改元の際に江戸時代だけで8回、計10回候補として勘案されているが、通算にして11度目にして採用された。同時に一世一元の詔も併せて出され、在位中の改元は行わないものとした。

前越前藩主松平慶永らが勘案した文面を籤としたものから、明治天皇自らが宮中賢所にて抽選したものだとされている。


明治年間の流れ

明治天皇 (1867-1912)明治天皇が即位、天皇は江戸に行幸し、新政府は天皇を中心とした新しい国家体制を築くことを目指した。そして新たに江戸を東京と改め日本の新しい政治の中心にすえる。(この遷都については諸説ある。)

尊皇思想に基づき、天皇は親政を行い人民を直接統治するとしたが、政治体制は大日本帝国憲法(明治憲法)が制定されるまで、様々に変化した。中国明朝などに準じ一世一元制を定め天皇の謚号は元号とし、それまでの陰陽道的改元を廃止した。


明治維新
詳細は明治維新を参照のこと。
慶応3年(1867年)徳川幕府第15代将軍・徳川慶喜が、天皇に大政奉還したことを受け、朝廷は王政復古を宣言。これにより討幕派の薩摩藩や長州藩が中心となり明治新政府が成立した。大政奉還を受けて、翌年の1868年に年号を明治と改め、五箇条の御誓文によって、新しい政治方針を示した。

新政府は江戸時代のすべてを改革し、天皇を中心とした中央集権国家の構築を目指していった。新政府は、藩を廃止し、武士の特権をなくし、地租改正によって従来の米年貢を廃止し、金納地租に代えて財政基盤とした。また徴兵制を実施し、西欧列強を模範として富国強兵を推進した。戸主は徴兵を免除されたので、主に戸主以外の次三男層や貧農層の子弟が兵役を担った。1869年(明治2年)には各藩に版籍奉還を命令し、1871年(明治4年)には、廃藩置県を行った。国民には、江戸時代の自由の制限をなくし、身分の撤廃を行い四民平等とし、日本全国の行き来の自由を認め、職業の選択の自由や、散髪帯刀の自由など様々なことを改革していった。

一方、富国強兵、殖産興業の2つを国の重要政策とし、八幡製鉄所の建設、鉄道の敷設、輸出産業の育成など、欧米列強に対抗するため一刻も早い近代化を目指し国力の邁進に努めた。また徴兵制を実施し、列強に対抗するために近代的な軍隊の創設にも取り組んだ。


自由民権運動
征韓論をめぐって政府部内で対立を生じた明治六年政変で、強硬派の江藤新平・西郷隆盛・副島種臣・板垣退助・後藤象二郎の5人は参議を辞任した。その後、明治維新によって特権を失った不平士族をも巻き込んで江藤新平は佐賀の乱、西郷隆盛は、西南戦争などの士族反乱を起こしたが鎮圧された。他方、板垣退助らは民選議院設立建白書を政府に提出、議会開設を主な要求とする自由民権運動を起こした。


国会開設
新政府は天皇親政を掲げ、それまで国事を行ってきた幕府と、朝廷の実権を握ってきた摂関(摂政・関白)を否定し、律令制に由来する太政官制を国家運営の方法として採用した。しかし実際は明治維新の立て役者である旧薩摩・長州藩出身者が中心となって政権を握っていた(藩閥政治)ため、明治六年政変(征韓論政変)以後の自由民権運動では有司専制との批判を浴びることとなった。

自由民権運動の発展に対し、政府は、明治14年(1881年)のいわゆる明治十四年の政変で、即時国会開設を唱えていた急進派の大隈重信(佐賀藩出身)一派を政府から追放する一方、「国会開設の勅諭」を発し、明治23年に議会を開設することを国民に約束した。その後、明治18年(1885年)には太政官制を廃止し、内閣制を導入し、初代総理大臣には伊藤博文が就任した。


憲法制定
1889年(明治22年)には大日本帝国憲法が制定され、翌1890年(明治23年)に第1回帝国議会が開かれ、日本は、立憲君主制国家として出発した。しかし帝国議会は国民に責任を負うものではなく、天皇に対して責任を持つもので、名目上英国などの国民主権の国会とは性格を異にしていた。議会は天皇の意見機関という位置づけであり、天皇の威を借りる形で政府や軍部は議会に左右されずに絶対的な権力を有する仕組みになっていた。

東アジアで最初の成文憲法である大日本帝国憲法(明治憲法)を発布した。この憲法に対する当時の評価は高く、国内では「聞きしにまさる良憲法」(高田早苗)などと民権派からの絶賛もあった。また欧米各国の識者からも、実際の運用能力への留保はありつつ、その内容に関しては高く評価された。

同憲法は、形式的な権限と最高の権威を持つ天皇を不可侵の元首とし、立法と財政に関する権限を帝国議会に持たせることで、立憲君主制を実現させた。たとえば、天皇は第五条において立法権者としての地位を与えられたが、その職務は概ね、法律を裁可することのみであり、またその裁可には国務大臣の副署が必要とされた。つまり、大臣副署がなければその法律は無効であり、さらに天皇が裁可を拒むことは形式上可能であっても、事実上は不可能であった。この点は現在のイギリス国王も同じといえる。同憲法の問題は、行政権の強大さとその強大さをもってしても統帥権を盾に介入し得なかった軍部の独立性の問題であった。

そして明治22年(1889年)大日本帝国憲法の公布とともに、衆議院議員選挙法が公布され、25歳以上で納税15円以上の男子のみに選挙権を与えた制限選挙を実施し、明治23年(1890年)に国会(帝国議会)が開会された。

その後も徐々に選挙権の制限条件を緩和していき、また政府と政党との対立も緩和されていった事もあって、明治時代末期から民主主義的な思想が民衆に広まりはじめ、大正デモクラシーへとつながって行く。


日清・日露戦争
植民地化されずに自力で近代化への改革をなした日本は、1894年(明治27年)には英国と条約改正をなしとげ、これを皮切りに江戸時代末期以来の不平等条約の解消を進めた(完全解消したのは韓国併合以降である)。

また南下するロシアに対抗するため、朝鮮半島の近代化を推し進めた、また琉球を処分し同化政策をとり沖縄県を設置。これをめぐって朝鮮と琉球の属国を維持したい清と対立し、明治27年(1894年)に日清戦争が勃発する。当時の国力では財力、軍艦、装備、兵数すべてにおいて清の方が優位であったが勝利。そして、下関条約によって朝鮮半島の独立と琉球同化政策を認めさせ、当時としては莫大な賠償金を獲得し、領土として遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲させた。この内、遼東半島は露仏独の三国干渉により返還させられ、国民に屈辱感を与え、報復心が煽られた。しかしこの戦争によって日本も諸列強の仲間入りをし、欧米列強に認められることとなった。他方、「眠れる獅子」と言われた清が敗戦したことから、諸列強の中国大陸の植民地化の動きが加速されることとなった。

1902年(明治35年)には、ロシアの南下政策を牽制するという利害一致から日英同盟が締結された。当時世界第一の大帝国で「栄光ある孤立」を貫いていた英国が初めて同盟を締結したということと、アジアの新興国家である日本が相手ということから世界の注目を受けたが、ヨーロッパでは、極東において成り上がりの日本を手先にして火中の栗(中国)を拾わせようとするものとする風刺も見られた。その後、満州、朝鮮半島の利害が対立したロシア帝国相手に日露戦争が勃発。大国ロシア相手に日本は日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃滅した。ロシアはなお陸軍は維持していたが、海軍力の大半を失い、国内でも革命運動が発展していたため講和に傾いた。日本も長期戦には耐えうる経済発展を達成していなかったので、講和に応じた。日露戦争を終結させたポーツマス条約により、樺太・千島交換条約によって放棄した樺太の南部の獲得に成功した。これは白色人種の大国に対する有色人種の小国の、また絶対主義国家に対する立憲君主国家の勝利であり、世界史上の意義も大きい。ちなみにエチオピアのアドワの戦いの例もあり、白色人種国家に対する有色人種国家の近代初の勝利というわけではない。

1905年、韓国統監府初代統監には伊藤博文が任命された。伊藤は1908年に辞任。1909年7月、桂内閣が韓国併合を閣議決定。10月26日、ロシアとの会談を行うため渡満し、ハルピンに到着した際、大韓帝国の独立運動家安重根に暗殺された。明治43年(1910年)には日韓併合条約を結び、大韓帝国を併合し、ここに諸列強と並ぶ帝国主義国家にのし上がった。大国ロシアに対して戦勝を記録したことは、諸外国にも反響を与えたが、嘉永年間以来の黒船の衝撃と、その後目指した西欧列強に並ぶ近代国家づくりの目標は一応達成されたとする説もある。

しかし賠償金は全く取れなかったため、日本国内では国民の怒りが爆発し、日比谷焼打事件が起こった。また堺利彦・片山潜らの反戦運動や与謝野晶子やキリスト教の立場からする内村鑑三の非戦論も唱えられた。

その後第一次世界大戦の講和により完成したベルサイユ体制の世界で、大正9年(1920年)に設立された国際連盟に常任理事国として参加し、日本は明治維新から約50年という速さで列強国のひとつに数えられることになった。