鎌倉時代
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年表
守護地頭の設置(1185年)
奥州征伐(1189年)
源頼朝、征夷大将軍任命(1192年)
頼朝の死、頼家が家督を継ぐ(1199年)
十三人の合議制
梶原景時の排斥(1200年)
比企能員の変(1203年)
源実朝、将軍に就任
畠山重忠の排斥(1205年)
牧氏事件
和田合戦(1213年)
実朝、公暁に暗殺される(1219年)
承久の乱(1221年)
六波羅探題の設置
大田文の作成
連署の設置(1225年)
評定衆の設置(1225年)
九条頼経が将軍に就任(1226年)
御成敗式目の制定(1232年)
宮騒動(1246年)
宝治合戦(1247年)
引付衆の設置(1249年)
宗尊親王が将軍に就任(1252年)
二月騒動(1272年)
文永の役(1274年)
弘安の役(1281年)
霜月騒動(1285年)
平禅門の乱(1293年)
永仁の徳政令(1297年)
嘉元の乱(1305年)
文保の和談/両統迭立(1317年)
正中の変(1324年)
元弘の変(1331年)
鎌倉幕府滅亡(1333年)
鶴岡八幡宮の大イチョウ鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃-1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。朝廷と並ぶ政治の中心となった鎌倉幕府が相模鎌倉に所在したことから鎌倉時代と称する。
成立時期は源頼朝が征夷大将軍(将軍)に任じられて鎌倉幕府を開いた1192年とするのが一般的であるが、源頼朝が平家打倒のために挙兵した1180年説、寿永二年十月宣旨で東海道、東山道の支配権が認められた1183年説、義経追討の名目で地頭の設置権を獲得した1185年説、頼朝が上洛し権大納言・右近衛大将に任命された1190年説など様々な説もある。
武士階級が天皇・貴族階級と分離し新たな支配体制を求め鎌倉幕府を開き、封建政治を始めた時代である。封建政治は、この後江戸幕府崩壊(1868年・慶応4年)まで続く。
概要
12世紀末に、源頼朝が「鎌倉殿」として武士の頂点に立ち、全国に守護を置いて、鎌倉幕府を開いた。京都の朝廷と地方の荘園・公領はそのままで、地方支配に地頭等の形で武士が割り込む二元的な支配構造ができあがった。
幕府は「鎌倉殿」頼朝の私的家政機関として設立されており、当時の制度上では公的機関ではない。したがって基本的に鎌倉幕府が支配下に置いたのは鎌倉殿の知行国と鎌倉殿と主従関係を結んだ武士であり、全国の武士を支配下に治めたわけではない。平氏政権が朝廷に入り込み、朝廷を通じて支配を試みたのとは好対照である。しかし、元寇以降は全国の武士に軍事動員をかける権限などを手にし、事実上全国を支配することとなる。
鎌倉幕府がそれ以前の武家政権である平氏政権と最も異なる点は「問注所」(後に評定所)と呼ばれる訴訟受付機関を設置したことで、これまでは地所の支配権をめぐる争いは当事者同士の武力闘争に容易に発展していたものをこれにより実質的に禁止することになった。武士の、つまり全国各地の騒乱のほぼ全ての原因が土地支配に関するものであり、頼朝の新統治理論はこの後永く幕藩体制の根幹を成すものになった。
源頼朝の死後、将軍の輔弼制度として北条家による執政制度も創設され、たとえ頼朝の血統が絶えても鎌倉幕府体制は永続するように制度整備がなされ、その裏打ちとして御成敗式目という初の武家法が制定され、その後の中世社会の基本法典となった。
後鳥羽上皇らが幕府討伐のため起こした承久の乱は、結果としては幕府が朝廷に勝利し、朝廷に対する幕府の政治的優位性の確立という画期的な事件となった。これにより、多くの御家人が西国に恩賞を得、東国に偏重していた幕府の支配が西国にも及ぶようになる。
経済的には、地方の在地領主である武士の土地所有制度が法的に安定したため、全国的に開墾がすすみ、質実剛健な鎌倉文化が栄えた。文化芸術的にもこのような社会情勢を背景に新風が巻き起こり、それまでの公家社会文化と異なり、仏教や美術も武士や庶民に分かりやすい新しいものが好まれた。政局の安定は西日本を中心に商品経済の拡がりをもたらし、各地に定期的な市が立つようになった。
13世紀には、1274年の文永の役と1281年の弘安の役の二度にわたる元寇があった。この戦いでは辛うじて元の侵攻を阻止出来た。これにより「日本は神国」との意識が生まれ、後世の歴史意識に深く刻み込まれていくこととなった。また元の侵攻は阻止したものの、今までの幕府の戦争と違い全くの外国が相手であったため、この戦いによって実質的に獲得したものは何も無く、そのため出征した武士(御家人)への恩賞の支払いが少なかったこともあって、「いざ鎌倉」といった幕府と御家人との信頼関係を損ねる結果となる。
元寇を機に幕府は非御家人を含む日本全国の武士へ軍事動員をかける権限を得たほか、鎮西探題や長門探題などの出先機関を置き、西国への支配を強めた。しかし、西国をはじめ、日本国内を中央集権的に統治しようとする北条氏嫡流家である得宗家が御家人を排除し、被官である御内人を重用するようになる。御家人の心は次第に幕府から離れていくようになり、御家人達武士全体の不満がくすぶる結果となった。後に鎌倉幕府が崩壊する一つの要因となったとも言える。
また、承久の乱以後の朝廷の衰退は皇位継承を巡る自己解決能力をも失わせ、結果的に幕府を否応無しに巻き込む事になった。幕府は両統迭立原則によって大覚寺統・持明院統両皇統間における話し合いによる皇位継承を勧めて深入りを避ける方針を採ったが、結果的に紛糾の長期化と(幕府本来の方針に反する)朝廷から幕府に対する更なる介入要請を招き、その幕府の介入結果に不満を抱く反対派による新たな介入要請が出されるという悪循環に陥った。その結果、大覚寺統傍流出身の後醍醐天皇子孫への皇位継承を認めないという結論に達したとき、これに反発した後醍醐天皇やこれを支持する公家と幕府に不満を抱く武士達の連携の動きが現われて、討幕運動へと発展する事になった。
鎌倉時代の政治
鎌倉時代は武士が政権を獲得した時代と一般には認識されている。しかし、依然として京都は鎌倉を凌ぐ経済の中心地であり、朝廷や公家、寺社の勢力も強力だった。武家と公家・寺家は支配者としての共通面、相互補完的な側面、対立する面があった。よって朝廷の支配との二元的支配から承久の乱を通して、次第に幕府を中心とする武士に実権が移っていった時代とみるのが適切であろう。
鎌倉幕府は当初、将軍(実際には「鎌倉殿」。征夷大将軍職は必須ではない)を中心としていた。しかし源氏(河内源氏の源頼朝系)直系の将軍は3代で絶え、将軍は公家(摂家将軍)、後には皇族(皇族将軍)を置く傀儡の座となり、実権は将軍から、十三人の合議制へ移る。さらに和田合戦、宝治合戦、平禅門の乱などにより北条氏以外の他氏族を幕府から排除し、権力を北条氏に集中させる動きも強まった。そうして、頼朝の妻である北条政子を経て、執権であった北条氏へ移っていった。執権北条時頼が執権引退後も執政を行うことから、幕府権力は執権の地位よりも北条泰時を祖とする北条氏本家(得宗家)に集中するようになり、執権が必ずしも幕府最高権力者というわけではなくなった。宮騒動二月騒動などで得宗家に反抗する名越北条家などは排除された。北条氏の功績としては御成敗式目の制定が挙げられる。これは今までの公家法からの武家社会の離脱であり、法制上も公武が分離したことを示す。しかし、先の北条氏他氏排斥に伴い、諸国の守護職などは大半が北条氏に占められるようになり、さらに北条氏の家臣である御内人が厚遇され、御家人や地方の武士たちの不満を招くことになった。
執権北条時宗の代に2度に渡る元寇があり、鎌倉幕府はこれを撃退したが、他国との戦役であり新たに領土を得たわけではなかったため、十分な恩賞を与えることができず、これもまた武士たちの不満を強めさせた。また、貨幣経済が浸透し、多くの御家人が経済的に没落し、凡下と呼ばれる商人階層から借財を重ねた。1284年に弘安の徳政、さらに1297年に永仁の徳政令を実施して没落する御家人の救済を図ったが、恩賞不足や商人が御家人への金銭貸し出しを渋るなど、かえって御家人の不満と混乱を招く結果に終わった。後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒は、この武士たちの不満を利用する形で行われることになる。
鎌倉時代の経済と社会
守護・地頭
1185年に、源頼朝は大江広元の献策を容れて弟の源義経の追討を目的に全国に守護・地頭を設置する。守護は一国に1人ずつ配置され、謀反人の殺害など大犯三ヶ条や国内の御家人の統率が役割の役職。地頭は公領や荘園ごとに設置され、年貢の徴収や土地管理などが役割であった。鎌倉幕府の権威を背景に荘園を侵略し、豊作凶作にかかわり無く一定額の年貢で荘園管理を一切請け負わせる地頭請や、荘園を地頭分と領家分に強引にわける下地中分など、一部で横暴も多くあった。
惣領制
商工業
貨幣経済(宋銭・元銭の輸入)
為替
借上/土倉
頼母子
三斎市
振売
見世棚
座の形成
職人(鍛冶、鋳物師、紺屋、番匠)
農業
(*室町時代とは区別がはっきりしていない)
名田
二毛作:米の裏作に麦を(畿内や西国)
早稲・中稲・晩稲:品種改良
刈敷・草木灰・下肥;肥料の使用
牛馬耕:牛馬に犂を引かせる
水車:田への揚水
商品作物:楮/荏胡麻/藍/桑/茶など
交通
東海道(京〜鎌倉)の整備
問丸
馬借
対外関係
元寇
日宋貿易
日元貿易
倭寇
鎌倉時代の文化
鎌倉文化の特徴としては、武士や庶民の新しい文化が以前の貴族文化と拮抗し、文化の二元性がでてきたところにある。
作風は、一般に素朴で質実、写実的と言われる。中国(宋・元)からの禅文化の影響も色濃い。
文学
歌集
勅撰集
新古今和歌集
私家集
金槐和歌集
山家集
随筆
徒然草
方丈記
日記・紀行文学
玉葉
海道記、東関紀行
十六夜日記
軍記物語
平家物語
保元物語
平治物語
源平盛衰記
説話集
宇治拾遺物語
十訓抄
古今著聞集
仏教説話集
沙石集
宝物集
発心集
歴史書
今鏡
水鏡
愚管抄
吾妻鏡
元亨釈書
百練抄
絵詞
蒙古襲来絵詞
宗教
仏教の隆盛
保元の乱、平治の乱から治承寿永の乱と続く、戦乱の時代、一層強くなった厭世観(末法思想)が魂の救済を求める活動を強めた。鎌倉時代は仏教の一般大衆化を推し進めた時代である。浄土と禅の二宗派が時代を支配した。平安時代の古い宗派はとても難解で、大衆より知的階級に受け入れられた。大衆には布教が禁じられてもいた。比叡山延暦寺の僧は教義の教えや体系的な学問にはげむ一方、加持祈祷や僧兵の武力を通じて、政治権力を持つようになった。このような状況の中で、無条件の信仰と信心、そして阿弥陀如来に対する祈りを基本とする融通念仏(良忍)をはじめとする浄土教が興った。また、禅宗はすべての俗世と経典による権威を否定し、道徳的な人格よりも知的な造詣を重視し、武士階級に受け入れられた。武士階級が成長していくにつれて、禅は真実の体現化と捉えられるようになった。
鎌倉新仏教の成立
多くの優れた僧が現れて、天台・真言などの旧仏教に対し、新仏教と称してよい独創的な教義の体系とその実践の方法とを確立した。また、その後の時代に大きな影響を及ぼした。
浄土信仰の系統、浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)、時宗(一遍)
禅宗の系統、臨済宗(栄西)、曹洞宗(道元)
独自の主張、日蓮宗(日蓮)
旧仏教の革新
新仏教の台頭に対抗して、旧仏教の側は念仏批判をし、戒律を重んじて、腐敗している旧仏教内部の革新を進めた。また、社会事業をも熱心に進め、ハンセン病救済事業や、非人救済、橋の架橋を行った。
旧仏教の革新
法相宗(貞慶)
華厳宗(高弁)
律宗(俊愑、叡尊、忍性)
南宋の知識人の来日
元の侵攻によって、南宋が圧迫され、滅んだために知識人が日本に渡ってくることがあった。いずれも幕府の指導者に影響を与えた。
禅宗
蘭渓道隆
無学祖元
一山一寧
反本地垂迹説
元寇の勝利によって民族的自覚が強まり、日本は神国であるという「神国思想」が発生し、神本仏従の習合思想が成立。
伊勢神道
度会家行
彫刻
運慶
快慶
康弁
建築
天竺様 - 東大寺南大門
唐様 - 円覚寺舎利殿
和様 -蓮華王院本堂
折衷様 - 歓心寺金堂
絵画
縁起絵
「融通念仏縁起絵巻」
「春日権現験記」
「北野天神縁起絵巻」
「石山寺縁起絵巻」
伝記絵
「法然上人絵伝」
「一遍上人絵伝」
合戦絵/物語絵
「平治物語絵巻」
「蒙古襲来絵巻」
「男衾三郎絵巻」
似絵
「源頼朝像」
「後鳥羽上皇像」
頂相
「聖一国師像」
書道
青蓮院流