明治時代日本史年表

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明治時代年表

明治時代 1868 戊辰戦争が起こる
王政復古で成立した明治新政府が江戸幕府勢力を一掃した内戦
1869 版籍奉還が行われる
諸大名から天皇への領地(版図)と領民(戸籍)の返還
1871 廃藩置県が行われる
藩を廃止して、地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革
1872 富岡製糸場が作られる
群馬県富岡市にある日本初の器械製糸工場。官営模範工場の一つ。輸出品である繭から生糸をつくる近代的な製糸工場
1873 徴兵令が出される
国民の兵役義務を定めた法令、満20歳の男子から抽選で3年の兵役とすることを定めた
地租改正が始められる
租税制度改革。この改革により日本にはじめて土地に対する私的所有権が確立した土地制度改革
1874 民選議院設立建白書が政府に提出される
板垣退助、後藤象二郎らが、政府に対して最初に民選の議会開設を要望した。、士族や豪農・豪商ら平民に参政権を与え、議会を開設せよとの主張
1875 樺太・千島交換条約が結ばれる
日本とロシア帝国との間で国境を確定するために結ばれた条約。樺太をロシア領、得撫島以北を含む千島18島を日本領と取り決めた。
江華島事件が起こる
朝鮮の江華島付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突。日朝修好条規締結の契機となった。
1877 西南戦争が起こる
西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱。西南役、丁丑の乱、十年戦争、私学校戦争とも呼ばれ、明治初期の一連の士族反乱のうち最大規模のもので、日本最後の内戦。
1879 琉球藩が沖縄県とされる
明治政府は軍隊と警官を派遣して琉球藩の廃止を宣言し、鹿児島県に編入・同年中に沖縄県を設置
1881 国会の開設を政府が約束する
帝国議会開設の詔・10年後に国会を開設することを天皇の名で国民に宣言
板垣退助が自由党を作る
板垣退助らが結成した日本最初の近代政党。国会期成同盟が発展して結党された。初代党首は板垣。自由民権運動の担い手として全国に組織を広げる
1882 大熊重信が立憲改進党を作る
自由民権運動の代表的政党の一つ。初代党首は大隈重信。地方都市の商業資本家・知識人層・三菱を支持基盤
1884 秩父事件が起こる
埼玉県秩父郡の農民が政府に対して起こした武装事件。自由民権運動の影響下に発生した「激化事件」の代表例
1885 内閣制度発足
伊藤博文が初代の内閣総理大臣となる
1886 ノルマントン号事件が起こる
イギリス船籍の貨物船、ノルマントン号が、紀州沖で座礁沈没した事から始まった事件。この事件以降、領事裁判の不当さを感じ不平等条約撤廃の動きが高まった。
1889 大日本帝国憲法が制定される
近代立憲主義に基づく日本の憲法。立憲主義の要素と国体の要素を併せ持つ欽定憲法。立憲主義によって議会制度が定められ、国体によって議会の権限が制限された。
1890 第一回衆議院議員総選挙が行われる
第一回帝国議会が開かれる
1891 足尾銅山鉱毒事件を田中正造が議会で取り上げる
群馬県で起きた足尾銅山の公害事件。明治時代後期に発生した日本の公害の原点
1894 日英通商航海条約
陸奥宗光による領事裁判権の廃止。不平等条約改正交渉の結果、ようやく達成できた最初の改正条約
日清戦争が起こる
李氏朝鮮をめぐる日本と清朝中国の戦争。豊島沖の海戦で始まった。
1895 下関条約が調印される
日清講和条約は、日清戦争の後に、下関市で開催された下関講和会議で締結された条約。
ロシア・ドイツ・フランスが三国干渉を行う
下関条約で日本への割譲が決定された遼東半島を清へ返還するよう、フランス・ドイツ・ロシアの3国が行った日本に対する勧告
1901 日本初の近代製鉄所「八幡製鉄所」が操業開始
1902 日英同盟が成立する
日本とイギリスとの間の軍事同盟。
1904 日露戦争が起こる
大日本帝国とロシア帝国とによる、朝鮮半島と中国の満州を主戦場とした戦争。極東における南下政策を押し進めるロシア帝国と、朝鮮半島を国土防衛上の生命線と位置づける新生明治日本との戦い
1905 ポーツマス条約が調印される
日露戦争の講和条約。日本全権小村寿太郎とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印。
1910 韓国併合が行われる
韓国併合ニ関スル条約に基づいて日本が大韓帝国を併合した事を指す
1911 関税の自主権の回復
小村寿太郎が日米通商航海条約を調印し関税自主権の回復を果たした

明治時代

明治時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

年表
1868年(明治元年)神仏分離令
1869年(明治2年)戊辰戦争の終了、版籍奉還
1871年(明治4年)廃藩置県
1872年(明治5年)太陽暦(グレゴリオ暦)の採用
1873年(明治6年)徴兵令、地租改正、明治六年政変(西郷隆盛・板垣退助が下野)
1874年(明治7年)民撰議員設立建白書、台湾出兵
1875年(明治8年)樺太・千島交換条約
1876年(明治9年)日朝修好条規(江華条約)
1877年(明治10年) 西南戦争
1878年(明治11年) 地方三新法
1879年(明治12年) 沖縄県を設置した。
1880年(明治13年) 国会期成同盟結成
1881年(明治14年) 明治14年の政変、国会開設の詔勅出される。
1882年(明治15年) 福島事件
1884年(明治17年) 秩父事件
1885年(明治18年) 内閣制度発足、天津条約
1889年(明治22年) 大日本帝国憲法発布
1890年(明治23年) 第1回衆議院総選挙、第1回帝国議会召集
1891年(明治24年) 大津事件
1894年(明治27年) 日清戦争 (- 1895年)、日英通商航海条約
1895年(明治28年) 下関条約
1901年(明治34年) 足尾銅山鉱毒事件
1904年(明治37年) 日露戦争 (- 1905年)
1905年(明治38年) ポーツマス条約
1910年(明治43年) 日韓併合、大逆事件


明治(めいじ)は、日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。1868年1月25日から1912年7月30日までの期間を指す。明治天皇在位期間とほぼ一致する(ただし、実際の改元の詔書が出されたのは1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)である)。


改元
慶応4年9月8日(グレゴリオ暦1868年10月23日) 明治天皇即位による代始改元。
ただし、改元の詔書には同年1月1日(グレゴリオ暦1868年1月25日)に遡って適用される旨が記載されているため、法的には1月1日より改元とされる。
明治45年7月30日(1912年(グレゴリオ暦と同一計算法の太陽暦導入のため日付は同一)) 大正に改元、同日は大正元年7月30日となった。


出典
『易経』の「聖人南面而聴天下、嚮明而治」より。

「聖人南面して天下を聴き、明に嚮いて治む」というこの言葉は、過去の改元の際に江戸時代だけで8回、計10回候補として勘案されているが、通算にして11度目にして採用された。同時に一世一元の詔も併せて出され、在位中の改元は行わないものとした。

前越前藩主松平慶永らが勘案した文面を籤としたものから、明治天皇自らが宮中賢所にて抽選したものだとされている。


明治年間の流れ

明治天皇 (1867-1912)明治天皇が即位、天皇は江戸に行幸し、新政府は天皇を中心とした新しい国家体制を築くことを目指した。そして新たに江戸を東京と改め日本の新しい政治の中心にすえる。(この遷都については諸説ある。)

尊皇思想に基づき、天皇は親政を行い人民を直接統治するとしたが、政治体制は大日本帝国憲法(明治憲法)が制定されるまで、様々に変化した。中国明朝などに準じ一世一元制を定め天皇の謚号は元号とし、それまでの陰陽道的改元を廃止した。


明治維新
詳細は明治維新を参照のこと。
慶応3年(1867年)徳川幕府第15代将軍・徳川慶喜が、天皇に大政奉還したことを受け、朝廷は王政復古を宣言。これにより討幕派の薩摩藩や長州藩が中心となり明治新政府が成立した。大政奉還を受けて、翌年の1868年に年号を明治と改め、五箇条の御誓文によって、新しい政治方針を示した。

新政府は江戸時代のすべてを改革し、天皇を中心とした中央集権国家の構築を目指していった。新政府は、藩を廃止し、武士の特権をなくし、地租改正によって従来の米年貢を廃止し、金納地租に代えて財政基盤とした。また徴兵制を実施し、西欧列強を模範として富国強兵を推進した。戸主は徴兵を免除されたので、主に戸主以外の次三男層や貧農層の子弟が兵役を担った。1869年(明治2年)には各藩に版籍奉還を命令し、1871年(明治4年)には、廃藩置県を行った。国民には、江戸時代の自由の制限をなくし、身分の撤廃を行い四民平等とし、日本全国の行き来の自由を認め、職業の選択の自由や、散髪帯刀の自由など様々なことを改革していった。

一方、富国強兵、殖産興業の2つを国の重要政策とし、八幡製鉄所の建設、鉄道の敷設、輸出産業の育成など、欧米列強に対抗するため一刻も早い近代化を目指し国力の邁進に努めた。また徴兵制を実施し、列強に対抗するために近代的な軍隊の創設にも取り組んだ。


自由民権運動
征韓論をめぐって政府部内で対立を生じた明治六年政変で、強硬派の江藤新平・西郷隆盛・副島種臣・板垣退助・後藤象二郎の5人は参議を辞任した。その後、明治維新によって特権を失った不平士族をも巻き込んで江藤新平は佐賀の乱、西郷隆盛は、西南戦争などの士族反乱を起こしたが鎮圧された。他方、板垣退助らは民選議院設立建白書を政府に提出、議会開設を主な要求とする自由民権運動を起こした。


国会開設
新政府は天皇親政を掲げ、それまで国事を行ってきた幕府と、朝廷の実権を握ってきた摂関(摂政・関白)を否定し、律令制に由来する太政官制を国家運営の方法として採用した。しかし実際は明治維新の立て役者である旧薩摩・長州藩出身者が中心となって政権を握っていた(藩閥政治)ため、明治六年政変(征韓論政変)以後の自由民権運動では有司専制との批判を浴びることとなった。

自由民権運動の発展に対し、政府は、明治14年(1881年)のいわゆる明治十四年の政変で、即時国会開設を唱えていた急進派の大隈重信(佐賀藩出身)一派を政府から追放する一方、「国会開設の勅諭」を発し、明治23年に議会を開設することを国民に約束した。その後、明治18年(1885年)には太政官制を廃止し、内閣制を導入し、初代総理大臣には伊藤博文が就任した。


憲法制定
1889年(明治22年)には大日本帝国憲法が制定され、翌1890年(明治23年)に第1回帝国議会が開かれ、日本は、立憲君主制国家として出発した。しかし帝国議会は国民に責任を負うものではなく、天皇に対して責任を持つもので、名目上英国などの国民主権の国会とは性格を異にしていた。議会は天皇の意見機関という位置づけであり、天皇の威を借りる形で政府や軍部は議会に左右されずに絶対的な権力を有する仕組みになっていた。

東アジアで最初の成文憲法である大日本帝国憲法(明治憲法)を発布した。この憲法に対する当時の評価は高く、国内では「聞きしにまさる良憲法」(高田早苗)などと民権派からの絶賛もあった。また欧米各国の識者からも、実際の運用能力への留保はありつつ、その内容に関しては高く評価された。

同憲法は、形式的な権限と最高の権威を持つ天皇を不可侵の元首とし、立法と財政に関する権限を帝国議会に持たせることで、立憲君主制を実現させた。たとえば、天皇は第五条において立法権者としての地位を与えられたが、その職務は概ね、法律を裁可することのみであり、またその裁可には国務大臣の副署が必要とされた。つまり、大臣副署がなければその法律は無効であり、さらに天皇が裁可を拒むことは形式上可能であっても、事実上は不可能であった。この点は現在のイギリス国王も同じといえる。同憲法の問題は、行政権の強大さとその強大さをもってしても統帥権を盾に介入し得なかった軍部の独立性の問題であった。

そして明治22年(1889年)大日本帝国憲法の公布とともに、衆議院議員選挙法が公布され、25歳以上で納税15円以上の男子のみに選挙権を与えた制限選挙を実施し、明治23年(1890年)に国会(帝国議会)が開会された。

その後も徐々に選挙権の制限条件を緩和していき、また政府と政党との対立も緩和されていった事もあって、明治時代末期から民主主義的な思想が民衆に広まりはじめ、大正デモクラシーへとつながって行く。


日清・日露戦争
植民地化されずに自力で近代化への改革をなした日本は、1894年(明治27年)には英国と条約改正をなしとげ、これを皮切りに江戸時代末期以来の不平等条約の解消を進めた(完全解消したのは韓国併合以降である)。

また南下するロシアに対抗するため、朝鮮半島の近代化を推し進めた、また琉球を処分し同化政策をとり沖縄県を設置。これをめぐって朝鮮と琉球の属国を維持したい清と対立し、明治27年(1894年)に日清戦争が勃発する。当時の国力では財力、軍艦、装備、兵数すべてにおいて清の方が優位であったが勝利。そして、下関条約によって朝鮮半島の独立と琉球同化政策を認めさせ、当時としては莫大な賠償金を獲得し、領土として遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲させた。この内、遼東半島は露仏独の三国干渉により返還させられ、国民に屈辱感を与え、報復心が煽られた。しかしこの戦争によって日本も諸列強の仲間入りをし、欧米列強に認められることとなった。他方、「眠れる獅子」と言われた清が敗戦したことから、諸列強の中国大陸の植民地化の動きが加速されることとなった。

1902年(明治35年)には、ロシアの南下政策を牽制するという利害一致から日英同盟が締結された。当時世界第一の大帝国で「栄光ある孤立」を貫いていた英国が初めて同盟を締結したということと、アジアの新興国家である日本が相手ということから世界の注目を受けたが、ヨーロッパでは、極東において成り上がりの日本を手先にして火中の栗(中国)を拾わせようとするものとする風刺も見られた。その後、満州、朝鮮半島の利害が対立したロシア帝国相手に日露戦争が勃発。大国ロシア相手に日本は日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃滅した。ロシアはなお陸軍は維持していたが、海軍力の大半を失い、国内でも革命運動が発展していたため講和に傾いた。日本も長期戦には耐えうる経済発展を達成していなかったので、講和に応じた。日露戦争を終結させたポーツマス条約により、樺太・千島交換条約によって放棄した樺太の南部の獲得に成功した。これは白色人種の大国に対する有色人種の小国の、また絶対主義国家に対する立憲君主国家の勝利であり、世界史上の意義も大きい。ちなみにエチオピアのアドワの戦いの例もあり、白色人種国家に対する有色人種国家の近代初の勝利というわけではない。

1905年、韓国統監府初代統監には伊藤博文が任命された。伊藤は1908年に辞任。1909年7月、桂内閣が韓国併合を閣議決定。10月26日、ロシアとの会談を行うため渡満し、ハルピンに到着した際、大韓帝国の独立運動家安重根に暗殺された。明治43年(1910年)には日韓併合条約を結び、大韓帝国を併合し、ここに諸列強と並ぶ帝国主義国家にのし上がった。大国ロシアに対して戦勝を記録したことは、諸外国にも反響を与えたが、嘉永年間以来の黒船の衝撃と、その後目指した西欧列強に並ぶ近代国家づくりの目標は一応達成されたとする説もある。

しかし賠償金は全く取れなかったため、日本国内では国民の怒りが爆発し、日比谷焼打事件が起こった。また堺利彦・片山潜らの反戦運動や与謝野晶子やキリスト教の立場からする内村鑑三の非戦論も唱えられた。

その後第一次世界大戦の講和により完成したベルサイユ体制の世界で、大正9年(1920年)に設立された国際連盟に常任理事国として参加し、日本は明治維新から約50年という速さで列強国のひとつに数えられることになった。